米作りの歴史

昭和30年後半より中野市ではエノキタケの施設栽培が盛んになりエノキの一大産地となりました。

そして40年代になるとエノキの通年栽培が可能となり昔から延徳田んぼと呼ばれていたわが地域でも、次第に荒廃地が増えてしまいました。

そんな中で昭和50年、先代である父が脱サラをして、先ず18haを借り受け専業農家として三ツ和農産はスタートしました。

先代が農家を始めた当初は、米作りというよりも開墾が主だったと聞いています。

また長年土地が荒れていたこともあり、土壌も弱く土作りも大変だったそうです。

 たまたま中野市がキノコの生産地だったこともあり “おが屑” が手に入りやすかったことや、大手味噌工場があったことが幸いし、おが屑とおからの2つを混ぜたい肥を作りそれを土にまいて土作りをしたそうです。

その甲斐があって、たまたまお米をわけた友人や知人からの好評を得ることができ、化成肥料の使用を止め10aあたり2tの堆肥を散布する栽培方法を開始しました。


昭和63年、特別栽培米制度を導入し口コミでお客様が増え、3年目には26ha全て特別栽培米として出荷出来るようになり現在に至ります。


規模を拡大すれば、どうしても化学肥料や農薬に頼りがちになります。

雑草が生えれば除草剤を使って除去する方が楽で効率的です。


しかし我が家では有機・低農薬にこだわりお米を作っています。

雑草の除去も農薬に頼らず自分たちの手で地道に行っています。


『有名産地でない所にこんなおいしいお米がっ!!』

と皆様にびっくりしてもらおうと日々汗をかいてます。